広岡浅子 (三井浅子、三井あさ) の生涯 九転十起生・あさが来た今井あさ/白岡あさのモデル
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広岡浅子(ひろおかあさこ、三井あさ)が生まれたのは、江戸時代後期(幕末)の嘉永2年(1849年)9月3日。
京都・油小路通出水の小石川三井家である第6代当主・三井高益の4女として誕生した。兄に三井高喜がいる。
2015年9月から放送されるNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」のヒロイン「今井あさ」・「白岡あさ」のモデルとなった女性が、この広岡浅子である。
幼名は三井照。浅子は「あさ」とも呼ばれていた。
伝統ある豪商三井家の娘らしく、姉・はつと同じように、幼い頃より裁縫や茶の湯、生け花、琴の稽古などを習った。
あさは、稽古よりも四書五経の素読など学問を非常に好んだが「女に教育は不要」と、時代の慣わしで、好きな読書も禁じられたと言う。
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しかし、三井浅子には「三井殊法大姉」の血が受け継がれている。
商売上手は1に「才覚」、2に「算用」、3に「始末」であり、三井殊法は「始末」「締めくくり」に徹し、また一切の無駄を無くして節約をしたと言い、父・三井高益も「一つのことに徹する大切さ」を教えたと言う。
慶応3年(1867年)、17歳のとき結婚。
お相手は8歳年上の広岡信五郎と言う、加島屋の一族で、第8代加島屋当主・加島屋久右衛門正饒の次男であった。
この加島屋(かじまや)は鴻池善右衛門と並ぶ大坂の豪商。
この加島屋との婚約は、三井あさがまだ2歳の時に決まっていたようで、小石川三井家から加島屋広岡家には、それまで、2人の娘が嫁いだ経緯があり、三井浅子で3代連続と言う重縁であったようだ。
しかし、時は幕末の動乱期で、長州藩の桂小五郎と薩摩藩の西郷隆盛らが坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結び、徳川慶喜が朝廷に大政奉還すると、坂本龍馬・中岡慎太郎らは暗殺され、鳥羽伏見の戦いとなり、徳川幕府が崩壊する時代であった。
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徳川幕府が転覆し経営困難に
勝海舟と西郷隆盛らの交渉にて江戸城が無血開城すると、九百万両(4500億円相当)と言う大名への貸付金が返済されず証文は紙きれ同然となる。
その為、天王寺屋、平野屋、茨木屋、和泉屋などの大坂の両替商は脱却できず、大阪の富豪たちが資金問題で次々と没落・倒産すると言う大変革を迎える時代となったのだ。
夫・広岡信五郎は優しい人であったが、世間知らずの坊ちゃん育ちで、いわゆる「ボンボン」であったため「金儲けは性に合わんねん」と三味線など風雅に興じ、店は番頭に任せたきりであったと言う。
加島屋の危機を見兼ねた広岡浅子は、融資先である諸藩の蔵屋敷に出向いて「獅子奮迅」。
逃げ回る家老や会計方重役を追い回しては、少しでも返済するように取り立てした。
若い女が武士に向かって何を言うとバカにされると、物事の道理から武士道まで徹底的に理論を説いて「恥を知りなさい」と責め立てたと伝わる。
このように、主人は手代に任せて、業務に関与しない古い商家の風習に限界を感じ、自身でも簿記、算術、法律、経済など実業に必要な幅広い知識を独学で修得したが、元々学問は好きであった。
加島屋が明治維新を辛うじて乗り切れたのは、この広岡浅子の知識と行動力、そして実家・三井家の援助が大きい。
実父・三井高益は新政府(明治政府)が中央集権化を目指し、明治天皇も東京に遷都し、蔵屋敷は失われて物資も関西から東京に移ると先を読む。
そして、東京に本店を移して新政府に接近すると、政府御用達の金融業者となり、古い両替商に代わって国立銀行を設立開始した。
これが「三井財閥」へと成長していく。
一方、家運の傾いた加島屋に対しては「事業を整理しなはれ」と忠告し、広岡久右衛門と広岡信五郎は銀行業と紡績業に絞り、両替商からうまく転身し、加島銀行と尼崎紡績(のちのユニチカ)を設立した。他にも大阪株式取引所の理事などを引き受けたが、銀行と紡績会社の実質的経営に奔走したのは、広岡浅子であった。
女性ではまだ相手にされない時代であった為、表向きは夫が社長を務めたが、大隈重信や伊藤博文、五代友厚など、明治政府の要人も手を差し伸べたと言う。
女性ながら炭鉱開発
三井家からの持参金や嫁入り道具を処分して資金とすると、1884年(明治17年)ごろからは、筑豊の潤野炭鉱(福岡県飯塚市、後の製鐵所二瀬炭鉱)を買収して、炭鉱開発に着手。
夫から鉱山再建を頼まれたときは、気の荒い鉱夫たちをを恐れて、さすがの広岡浅子もたじろいだと言う。
それでも、決意すると西洋の洋服の中に護身用に拳銃2丁を携行して、男たちと寝起きを共にして叱咤激励し、ときにはポタポタ水のしたたるまっ暗な坑道に入って陣頭指揮も取ったと言う。
最初は若い女が何しに来たと相手しなかった鉱夫も、やがて「すごい女だ」と感心するようになり、浅子は、いきなり労働条件や待遇を改善した。
この大胆な投資と行動力には、乱暴をしていた者まで服従し「姐御」(あねご)と慕われるようになった。
しかし、世間からは男もためらうような冒険的事業に、女性が乗り出したので、狂気扱いされることもしばしばだったと言う。
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1888年(明治21年)に加島銀行を設立すると広岡正秋(広岡久右衛門正秋、夫・広岡信五郎の弟)が頭取となったが、浅子は銀行経営にも敏腕を振るった。
とにかく数字に強く、正確な資料を迅速に作り、常に先を読む経営であったと言う。
決して勘や、古い慣習に頼った経営はせず、科学的・合理的に難問を打破して成功するので、夫・広岡信五郎も妻の才能には非常に助けられていた。
1896年(明治29年)、梅花女学校の校長であった成瀬仁蔵の訪問を受けると著書『女子教育論』を手渡され、3回読み涙するほど感銘を受けている。
この成瀬仁蔵は、大阪で最初に女子教育を始めた先進的な教育者だ。
潤野炭鉱は1897年から産出量が増加して優良事業へと結果も出している。
1899年(明治32年)には夫の弟・広岡正秋(広岡久右衛門正秋)が、朝日生命(現存の朝日生命とは関係がない)の経営に参画し保険事業にも乗り出した。
しかし、当時は大小の保険会社が乱立しており、経営は思わしくなく、成瀬仁蔵の推薦か?、広岡浅子は当時の文部大臣・西園寺公望の秘書である中川小十郎を1898年に招くと、1902年(明治35年)北海生命、護国生命と合併し創立された「大同生命」の初代社長に広岡正秋(広岡久右衛門正秋)が就任。
浅子はこのように弟の後見人としても支え、広岡財閥の礎を築いた。
※万屋(ドラマでは萬屋さん)のナイフ襲撃事件は、本文末尾に補足説明あり。
日本女子大学校設立に貢献
お金儲けだけが仕事ではないと感じ始め、事業から離れた広岡浅子は、少女の頃に学問を許されなかった事から成瀬仁蔵が説く「女性の為の高等教育」を実現しようと、成瀬仁蔵らと女子大学の創設に奔走するようになる。
山林王として知られる実業家の土倉庄三郎と共に5000円(現在の約1000万円)を寄付したのみに留まらず、8歳年下の成瀬仁蔵と共に、伊藤博文・大隈重信・渋沢栄一など政財界の有力者に協力を呼びかけるなどし、設立に向けて強力な支援者となった。
広岡家はもちろん、岩崎家や実家の三井財閥一門にも働きかけ、三井家からは文京区目白台の土地を寄付されるに至り、1901年(明治34年)、日本女子大学校(現 日本女子大学)が開校し「自発創造」「信念徹底」「共同奉仕」を綱領に女子高等教育の先駆けとなり、井上秀など優秀な女性を多く育てた。
このように女神のようなカリスマ性に彩られた浅子の伝承としては、大柄で丸顔、でっぷり太った色白であり、西洋の貴婦人のように洋装が似合い気品に溢れている表現されている。
これまでの話だと夫・広岡信五郎は凡愚のように見えようが、そうではなく温厚な人物で包容力があり、むしろ夫の支えがあったからこそ、浅子の才能が存分に発揮されたとも考えられる。
女性が社会の表舞台に出ることは極めてまれな時代にも拘わらず、妻がやる事には口を出さずに、存分に活躍させたばかりか、夫婦仲は非常によく、まさに夫版の内助の功と言えよう。
しかし、そんな理解ある夫・広岡信五郎も明治37年(1904年)に亡くなる。
その後、浅子は1人娘・広岡かめ子(広岡亀子)に、婿養子として一柳恵三を迎えて、銀行などの事業を広岡恵三に譲った。
広岡恵三は東京帝大の法科卒で、経営の才能があった。
明治42年(1909年)6月20日に、義弟・広岡久右衛門が死去するも、このように加島屋は見事時代の流れに乗り大阪の有力な財閥となり、広岡浅子は鈴木米(鈴木商店)、峰島喜代子(尾張屋銀行)らとともに、明治の代表的な女性実業家としての名声を後世に残したのだ。
晩年も女性の地位向上に尽力
事業から離れた広岡浅子は、1911年(明治44年)、成瀬仁蔵の影響で大阪YMCAの先駆者である宮川経輝牧師より受洗を受け、日本キリスト教女子青年会として、熱心なクリスチャンとしての宗教活動にも入った。
渋沢栄一や津田梅子、大山巌の夫人・山川捨松、メレル・ヴォーリズ夫妻とも親交があり、社会事業、奉仕活動に専念したが、特に売春問題に取り組み、遊郭で苦しむ女性たちの救出に取り組んだ。
「体を売る女をなぜ責めるのか。彼女たちはほかに手段がないからだ。ではなぜそうなのか? それは男たちが女子教育の機会を奪ったからだ」と言うのが、生涯の信念であったと言う。
このように婦人運動や廃娼運動にも参加し、当時発行が相次いでいた女性雑誌に多数の論説を寄せるなど、女性の啓発に努めた。
広岡浅子氏のペンネームは「九転十起生」。このペンネームが示す通り、何事にも決して諦めない人生であった。
1914年(大正3年)からは毎夏、避暑地として別荘を建設した御殿場・二の岡に、有能な若い女性を集めて合宿勉強会を主宰。
参加者の中には、児童文学者・翻訳家の村岡花子、参院議員として活躍した市川房枝らがおり、女子の教育と地位向上のために尽くした。
大正8年(1919年)1月、「私は遺言なんかしませんよ」と言いながら東京にて死去。享年70歳。
日本女子大学では1919年6月28日に全校を挙げて追悼会が開催された。
「婦女新聞」では、広岡浅子は尼将軍・北条政子に近い方で、まれに見る女丈夫だったとの人物評が出た。
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朝ドラに登場
2015年9月から NHKテレビ 朝の連続ドラマ小説「あさが来た」(大阪放送局制作)にて、波瑠さんが演じるヒロインとして広岡浅子(ドラマでは今井あさ)が登場する。
物語には、幼い頃からお転婆で叱られてばかりいた「あさ」を、いつも助けてくれた優しい姉・三井はつ も登場、
三井はつ は、大阪で一番大きい両替商・山王寺屋に嫁ついだが、山王寺屋は明治維新の荒波に飲まれて倒産。
夜逃げ同然で、はつは姿を消すものの、ようやく巡り合えた あさ は、姉に援助をしたいと申し出た。
しかし、姉夫婦はその申し出を断り、自分たちの力で再出発して行く。
その後、姉妹はお互いの人生の浮き沈みに関係なく支えあっていくのであった。
放送が楽しみですね。
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万屋の襲撃事件
万屋(ドラマでは萬屋さん)の襲撃事件は、小説での創作(フィクション)と推定されている。
この頃、小説上では炭鉱は既に政府に売却しており、加島銀行には多額の資金があったといい、加島屋と同じく両替商をかつて商っていた万屋が、融資を申し出る。
しかし、事業計画はずさんであり、酒に酔っている有り様であったため、広岡浅子はその融資を断った。
その後、万屋はなんども交渉するも融資を断り続けられたことをやがて恨むようになり、近所の公会堂でおこなわれた講演会の帰り道で待ち構え、ナイフで広岡浅子の脇腹を刺すと言う事件となるのが小説上の設定。
損傷した腸のほとんどを摘出すると言う大手術となり、1週間ほど予断を許さない状況が続いたと書かれている。
また、ドラマではラサール石井さんが演じる萬屋(よろずや)さんの罪が減刑さけるよう、願い出る設定となっている。
殺傷事件は史実としては確認できていないが、広岡浅子が晩年60歳の時に乳がんを、簡単な手術とは言え克服したのは事実となり、その手術後にキリスト教を信じるようになった。
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鈴木さま、コメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
ご指摘の件、参考にした内容が悪かったようで、お詫び申し上げます。
修正致しましたので、ご報告致します。
広岡浅子のこと、良く調べて上手にまとめてくださいましたね。
一か所、浅子が後にクリスチャンになり、中央委員を務めたのは、日本キリスト教女子青年会(YWCA)です。YWCAの機関誌「女子青年界」にも、何度か記事を書いています。そして、中央委員として活躍する傍ら、大阪YWCAを設立し、ここでも女性が人間として生きられよう努力します。
日本キリスト中央委員を、日本キリスト教女子青年会と改めていただけると幸いです。
私は、前日本YWCA理事長で、「日本YWCA100年史-女性の自立を求めて」を編纂、執筆したときに、広岡浅子のことを知り、深い印象を持ちました。
キリスト教出版社であるいのちのことば社が最近出版した「浅子と旅する」にはキリスト教関係のこと、YWCAのことも
載せられています。
鈴木伶子